「見せてもらいましたよ、一部始終を。やはり、あなた方にお空を任せるわけには行きませんね」 神社の裏から現れたさとりは何者も寄せ付けないような威圧感を漂わせながらゆっくりと歩み寄ってきた。 「そんな!これは山のみんなで決めたことなんですよ!」 「地上の妖怪の事情など関係ありません。元々お空は私のペットです。この子は私が連れて帰ります」 「あんた、霊烏路の意志はどうだっていいって言うの?」 「意志?あなた達が勝手に自分たちの都合のいい事をお空に吹きこんで、あの子をその気にさせているのだけなのではありませんか?」 絶望に満ちた椛の叫びも、怒りに震えるはたての言葉も、聞く価値がないとばかりにかるくあしらい、さとりは前進する。 「天狗の言葉は偽りに満ちている。今も昔も変わらないわね。いいえ、騙すつもりがなくても言葉は不完全で、誤解や悲劇を生みます。今ここで繰り広げられたいさかいが何よりの証拠でしょう?」 その場の全員の心を的確についてくる言葉。全員が押し黙ってしまった。 さとりは神奈子の面前に立ち、神奈子の視線にも臆することなく話しかける。 「元々はあなた方の方から破った掟です。私の家族を利用し、道具のように扱おうとした。本来ならば報復措置も辞さないところです。ですが、私も荒事は好みません。今までのことは水に流しましょう。八咫烏をお空から抜いてくれなどと無理も申しません。ただ今までどおり、地下の妖怪は地下で、地上の妖怪は地上で、それぞれ暮らすことを許していただきたいだけなのです」 「私の一存では決められないな。そこの烏天狗にでも聞いてみたらどうでしょうか」 神奈子の今の心情はどちらかというと天狗よりであった。さとりに好き勝手されたくないという思いもあり、文を指名した。 さとりは文に向きあい、三つの目で彼女の目を覗きこんだ 「射命丸文。こうやって直接話すのは初めてね」 「ええ、異変の時にはお世話になりました」 文は笑顔で答えているが、さとりには心の中に恐怖心がじわじわと満ちていくのが見える。 文はさとりが心を読めることを知っているだけに余計にやりにくいのだ。 「お燐はあなたを信用していたけれど、いまここで心を覗いてみて確信したわ。私はあなたみたいな人が大嫌い。虚栄心に満ちていて、それでいて自分に自信がない、空っぽな人。私はあなたにお空をまかせたくはありません」 嫌悪感と、それを見せてはいけないという心。文の心は混乱している。 「そうですね。あなたはいつも、新聞記者として真実を書き表し、正確に伝えたい、と思っていますね」 「……何が言いたいのですか?」 自分の心は覗かれているのにこちらからは相手の考えがわからない。説得するのはあまりにも不利な相手だ。 「今あなたは恐怖を感じていると同時に、私があなたと同じ痛みを感じていると思っている。大切な人を失う痛みを。おおまかにいえば、同じですが、私の感じているものと貴女の感じている痛みは似ているようでことなっています」 心を読めるさとりならではの芸当だった。 「思念も、もっと言ってしまえばすべての感覚は脳というフィルターを通した時点でオリジナルとはズレが生じます。いわば幻のようなものです。そして正確に表現しようと言葉を重ねれば重ねるほどそのズレは大きくなっていきます。真実を正確に伝えるということは実際には不可能なのです。あなたはその矛盾に気づいている。誰かの心を真に理解することは無理だと知っているから他人を信じきることができないし、真実を正確に伝えることは無理だと悟っているから、本当は新聞なんて無意味なのではないかとさえ思っている」 気づいてはいても、日頃は心のなかにしまいこんでいる矛盾。その心の隙間をさとりは的確についてくる。 「そこにお空が現れた。あの子は確かに何も考えていませんが、逆に言うと裏表がなく、いつも本心で接してくれる。他人も、自分の生業すらも信じられなかった貴方はさぞかし嬉しかったでしょうね。自分を尊敬してくれて、しかもその態度を疑わなくて済む。貴女の小さな虚栄心を満たしてくれるには充分すぎる相手ですよね。いつしか貴女はお空を手放したくなくなっていた。そしてその結果、あなたは自分のエゴで掟を歪めて、友人を傷つけてまで、お空を手元に止めようとしている」 文もそれは承知している。でもだからこそ、自分の意思を貫き通したいと思う。 「お空は純真な子です。自分の意思をもち、言葉を覚え、地上の諍いに触れることになればいずれ悲しみを背負うことになるでしょう。私はお空にそうなって欲しくはありません。あなただってそうでしょう?」 確かにさとりの言うとおりかもしれない。お空を地上に残せば今のままで、自分の好きなお空でいてくれる保証はない。 文の心に迷いが生じつつあった。 黙っている文をみてにわかに河童たちが活気づく。さとりは八咫烏を抜かないといっている。 このままさとりが地下へお空を連れて帰れば、いずれまた核融合の研究ができるかもしれない。 「いいぞ!もっといってやれ!」 「地獄烏をふたたび地下に返せ!」 「幻想郷に正義と希望を!」 自分勝手な河童たちは次々と野次を飛ばし始めた。 「るっさいわねあんたたち!文!そんなやつらの言うことに耳を貸すな!」 「そうですよ!いくら飼い主だからって、そんな物言いは、今までお空ちゃんの面倒を見ていた文さんに対する態度じゃありません!」 それまで黙っていたはたてと椛が反論する。言いたい放題言われて怒り心頭のようだ。 「ひどい言われようね。でも貴女たちも大概なんじゃないかしら。はたてさん、貴女は文さん以上に自分に自信がない。嫌われたくなくて周囲にいつも流されてしまうのね。だから自分の考えを持って堂々としている文さんに内心では嫉妬していた。でも、よかったではないですか。今回、文さんを助けることで優越感に浸ることができたんですから」 「嘘、そんなこと……あや、信じちゃダメ。しんじないで……」 心の闇をもっとも知られたくないものの前で言い当てられたはたては、ショックのあまりに顔面蒼白となってしまった。 さとりの第三の目が次は椛に向けられる。 「あなたは、もっとひどいわね。自分の定見などまるでない。強いものについて言うことを聞く振りをし、当り障りのないことをしていればなんだって許されると思っている。真面目な振りをしたクズね」 「そんなぁ、クズだなんてひどい……」 傷ついていた体だけでなく、心までも傷つけられた椛は、声を出す気力も、自分の体を支える力さえも失ってその場にへたり込んでしまう。 「何が……何が『人の心を完璧に理解する力』ですか」 友人二人を侮辱され、萎えかけた文の心に怒りが爆発した。 「あなたは、本当は何も見えていないんじゃないですか?確かにはたては見栄っ張りのわりに流されやすいし、椛は日和見で小物です。でもあなたが言うような面だけの人物じゃない。その証拠に、彼女たちは自分の不利益を顧みずに私に協力してくれました。だから私もいままで頑張ってこられた。あなたは彼女らの心の都合の悪い部分だけ拾って、悪意をもった解釈をしているだけではないですか!」 「そうね、でも真実を語るものは嫌われるもの。真実は常に心地が悪いものですからね。それはあなたが一番よくご存知なのでは?」 二人が舌戦を再開したのを見て河童たちがまたざわめきだす。 神奈子はため息をつき、大好きな二人が喧嘩をする姿をみたお空はついに泣きだしてしまった。状況は泥沼化しつつあった。 == 「やめておくれよ!」 突如、混乱する守矢神社に絶叫が響き渡った。 皆の視線が声の方に注がれる。 「お燐……?」 立っていたのはお燐だった。さとりがいないことに気づいて、急いで追ってきたのだろう。 肩で息をしながら悲しそうな目でこちらを睨みつけている。 「さとり様も、お姉さんも、河童さんたちも、みんなみんな自分の都合しか言ってないよ!これはそもそもお空の問題じゃないか!お空の気持ちはどうなるんだい!?」 魂をしぼりだすようなお燐の悲痛な叫び声に、その場が静まり返った。 「さとり様、あたいに言ったよね。新聞記者は嘘つきだって。あなたは口車に乗せられているだけかもしれない、だからお姉さんがお空を傷つけるような嘘つきかどうかは自分で確かめに行かなきゃいけないって。でも、今いちばんお空を傷つけてるのはさとり様の方だよ!」 お燐が指差した先には呆然として涙を流すお空の姿があった。 「お姉さんは確かにさとり様みたいにお空の考えを完璧に理解できるとは思えない。でも、お姉さんはお空の意思をきちんと汲み取って、尊重しようとしていたよ。さとりさまが散々嫌った言葉だって、傷つけるためじゃなくて分かり合うために使っていたよ。だからあたいはお姉さんにお空を任せようと思ったんだ。さとり様がそんなんだったら、あたいはさとり様にお空を任せたくないよ!」 「さとりさま……」 「お空……」 お空と視線を合わせたさとりは、彼女の悲しみを瞬時に理解した。さとりはお空の気持ちを踏みにじってしまったのだ。 境内は気まずい沈黙に包まれる。 こほん、と咳払いをした神奈子が沈黙を破った 「ああ、そうね。猫のいう通り、お空の意思をまだ聞いていなかったわね。いつの間にかたくさんの思惑がからみ合ってしまっていて、もう第三者が話し合っていたのでは埒があかないでしょう。お空、この先どうするかはあなたが決めなさい。それが皆の納得する一番の方法だわ」 放心状態にあったお空は急に指名されて戸惑った。この場にいる誰もがかたずを飲んでお空の言動を見守っている。 心配そうな文の顔。泣きはらしたお燐の顔。悲しそうなさとりの顔。たくさんの目がお空を見ている。 順繰りに見つめなおして我に返った彼女は、ひとつ深呼吸をした後、まずは傍らのさとりに頭を下げた。 「ごめんなさい、さとりさま」 さとりは悲しそうな目でお空を見つめた 「わたしは今まで、さとりさまに甘えてました。考えてることを読んでもらったり、守ってもらったり。さっきも、ちょっと怖かったけど、わたしを守ろうとしてやってくれたのがわかります。だから、悲しかったけど、今はすごく嬉しい気持ちです。でもわたし、このままじゃだめだなって思うようになりました。わたしがしっかりしないと、さとりさまはいつまでもわたしを心配しちゃうなって。今度からはほんとうの自分の力でさとりさまやおりんを守りたいなって」 言うことが以前よりしっかりしてきた。でもその言葉のどれもが本心からでた言葉だった。 お空はやはり、彼女が知っているお空のままだ。 「だからわたしは、地上でいろんなものを見て、自分でいろんなことを考えて、二人が心配しないくらいに強くなりたいです。でも二人がいると、どうしても甘えちゃうから、わたしはさとりさまやおりんからちょっとだけはなれてみたいと思ってます。さとりさまがさびしがるかなって心配になったけれど、おりんが大丈夫って言ってくれたから、きっと大丈夫だと思います。だから、ちょっとだけお別れです」 さとりは何も言えなかった。 お空はもういちどぺこりと頭を下げてから、神奈子の前にゆっくりと進み出て、深々と頭を下げた。 「神様、ごめんなさい」 神奈子は険しい表情でお空を見つめている。 「わたしがこの力をさずかったとき、わたしは神様になりたいとおもいました。神様になれば、わたしの好きなことも、おりんやさとりさまの願いも、ぜんぶかなえられるとおもったからです。でも今は」 お空は神奈子に背を向けて皆の方に向き直り、ちらと文の方を見た。 「わたしは山に残って、新聞記者になりたいです」 お空のその言葉で、文はお空があまりにもあっさりと力を捨てることを了承してくれた理由をようやく理解することができた。 彼女は八咫烏よりも新聞記者になりたかったのだ。 「取材のときのお姉さまは誰にでもわけへだてなく接します。強い妖怪でも、弱い妖精でも、神様にだっておんなじです。そしていつもいっしょうけんめい新聞を書きます。つらくても、売れなくてもあきらめずに、毎日です。お姉さまはいつも新聞記者は公平じゃなきゃいけないよって言います。たとえ自分がきらわれても公平でいなきゃならないって。私はそれ聞いた時すごいなって思ったんです。神様だって嫌われちゃったら消えてしまうのに、新聞記者は嫌われるのを怖がらないでがまんしてる。だから新聞記者になるのは、きっとどんな強い力を手に入れることよりもすごいことなんじゃないかなって思うんです」 突拍子もないお空の理論。はたては吹き出したが、文は笑わなかった。 そこまで立派じゃないよと心の中で突っ込みつつも、お空の言葉がただとても誇らしかった。 お空はもう一度文をちらりと見つめた後、全員に向き直ってにっこりと微笑んだ 「だからわたしは、お姉さまみたいなりっぱな新聞記者になりたいんです!」 お空がそう言い切った瞬間、彼女の体が突如激しい光に包まれた。星が爆発したかと見間違うような、激しい熱とまばゆい光。 周りで見ていた一同はあまりの眩しさにあわてて目を塞ぐ。 お空から発せられたエネルギーは、まるで激しい滝の映像を逆回しにしていくみたいに天へと昇っていき、遙か上空へ消えていった。 光が収まったのを感じ、恐る恐る目を開いた文はお空の姿が変化していることに気がついた。 禍々しい赤色をした胸の目が消え、同様に足についた石のような塊も、まとわりつく光の輪も消えている。 「昔のお空だ!」 思わず飛びついて頬ずりしてしまうお燐。 お空の体は八咫烏が憑依する前の姿に戻っていたのだ。それは八咫烏が彼女の体から抜け出たことを意味していた。 「やれやれ、神様よりもすごいのは新聞記者か。まるで『ねずみの嫁入り』みたいな話ね」 神奈子が愉快そうに笑った。 河童たちからは不平が漏れた。彼らの格好のおもちゃが永久に失われてしまったのだから。 そんな河童を神奈子が睨みつけて黙らせる。まさに蛇のひと睨み。 文は傍らのさとりの目をじっと見据えた。 彼女の三つの目はどれも涙であふれていた。悲しみともあきらめともつかぬ涙。 お互い散々傷つけ合ったが、文は彼女のためになにか話さずにはいられなかった。 「さとりさん、空の色ってどんな色をしているか知っていますか?」 「え?」 あまりにも唐突な話だったので、さとりはその瞬間の文の心を覗きそこねてしまった。 「うーちゃん……お空ちゃんは、私が取材に行くとどこへでもついてきたがるんです。仕方なく連れて行ったりしてますけど、最初の頃はけっこう鬱陶しく思っていたんですよ。それでね、ある日一緒に取材に行った帰りのことです。その日は話が少し長引いてしまって、帰る頃にはちょうど夕暮れ時になっていました」 文の心の中には夕陽と、照らされたお空の横顔が映っている。 「久しぶりにしみじみ夕日を見ましたから、綺麗ねって思わず口からでたんですよ。本当に何気なく言っただけ。そしたらあの子、そうだね、綺麗な緑色だね、っていうんです。最初は何言ってるんだろうこの子?って思ったんですけど、よく見ると確かに太陽の周りの橙色と、夜の紺色の部分の間に緑色の部分があるんです」 言われて初めて、さとりは文の心に映っている夕陽の中に、その緑色を見つけることができた。 「私はそのとき、あの子の書いた新聞を読んでみたいなって思ったんです。あの子が見ている世界は、どんな世界なのかなって」 文は微笑んだ。 「さとりさん、私はお空ちゃんと接する度に思い知らされるんです。世界はこういう見方もできるんだな、まだまだ面白いことがたくさんあるんだなって。だからもっと少し真摯に向き合わなきゃって思えるようになったんです。世界とも、今までないがしろにしていた友人たちとも」 二人の視線に気づいたはたてと椛は照れくさそうに手を降った 「そしてどうしようもなく、新聞を書きたくなるんです。自分の見たものを、自分の言葉で。それはあなたが言うように、不完全で、誤解を、時には悲しみを招く方法なのかもしれない。けれど、それでも私は自分の見たことを誰かに伝えたくなるんです」 文はお燐に抱き締められるお空のほうを見た。苦しそうなお空と、涙の乾いていないお燐。 けれど、二人の顔は笑顔に満ちている 「お空ちゃんはそんな私を肯定してくれました。そして、たった今、新聞記者になりたいとまで言ってくれた。うれしかった。だから私は、あの子と一緒に新聞をつくりたいんです」 再び視線を合わせた二人。文の心のなかに決意をみてとったさとりはようやく決心することができた。 「あの子をよろしくお願いします」 「わかりました」 もう一度文の心を確かめてみた。もはや心のどこを探しても、その決意に曇りを見つけることはできなかった。 「お姉さま!」 ようやくお燐の腕から開放されたお空が駆け寄ってくる。いつもみたいに抱きつくのかとおもいきや、お空は右手を差し出した。少し前までは核融合を制御するためのものだった手が、これからはペンやカメラを持つための手になるのだろうか。 「これからもよろしくね、お姉さま」 お空に向きあい、そっとその手を握った。溢れる涙はもう、堪えなくていい 「いままでみたいに甘くはできないわよ。それでもよければ一緒に新聞を作りましょう」 頷く代わりに、お空はさらに強く文の手を握り返した。 中指がペンだこでふくれていて、インクの臭いがする、お空の大好きなお姉さまの手を。 周囲から歓声があがった。 記事にしようとはたては慌ててメモをとり出し、椛は自らの鼻からでた液体で服を赤く染める。 神奈子は思わずもらい泣きしてしまい、同じくいまだに涙の止まないさとりをお燐がそっと支える。 不満を言っていた河童たちも渋々ながら目の前の事実を受け入れているようだ。 幻想郷は時に残酷で、時に優しい。 真実はきっとそのどちらも含んでいて、どちらが映るかは見る人の心次第なのだ。 文とお空はこの先どんな世界を見つめ、伝えていくのだろうか。 この日から、文々。新聞は文とお空の共同制作になった。