翌日。 文の家の更に上、九天の滝の上流部に一つの小屋がある。その前に文は立っていた。 「本当はあいつには頼りたくなかったんだけど」 彼女は深いため息をひとつつくと、意を決したように扉の前へ進み出た。 結局あのあと文とお燐は遅くまで飲み明かし、お空に起こされるまで二人仲良く雑魚寝していた。 名残惜しかったが、お燐は仕事があるからと地下へと帰っていった。 「いいかい?けっして自分だけで抱え込もうとするんじゃないよ?」 彼女は別れ際にそう念をおしていった。だから今、文は彼女の数少ない友人の家の前に立っているのだ。 太陽の高さから判断するに時間はもうお昼近いであろう。 文の友達に会うなら一緒に行きたいとぐずるお空をなだめ、なんとか留守番をさせるよう納得させていたら、あれよあれよという間にこんな時間になってしまっていたのだ。 「あいつは出不精だから、たぶん家にいるはずよね……。おーい、はたて!遊びに来てやったわよ」 友人の名を呼びながらごんごんと扉をノックするが返事がない。念のためにもう一度やや乱暴にノックしてみるがやはり反応がなかった。 「取材にでも出てるのかな?珍しい」 諦めて帰ろうと扉に背を向けた瞬間。 「ぁによう……」 不機嫌な声とともにゆるゆると扉が開き、中から烏天狗が顔をのぞかせた。 ボサボサの髪。下着の上に無造作にシャツを羽織っただけのあられもない姿。どうも彼女はたった今目覚めたばかりのようだ。 「あんたまだ寝てたの?」 「うっさいわね。昼十二時起きは常識でしょうが」 「ここは幻想郷よ。あんたの常識じゃなくて日本の常識をしゃべれ」 友人の名前は姫海棠はたて。 文と同じく新聞記者を生業としているが、彼女は「念写」という、遠くの被写体を写真に写す能力を持っているため、めったに外に出ることはない。生活時間が一般の烏天狗とはズレているのもそのせいだろう。 憎まれ口を叩きながらもはたては部屋の中に文を迎え入れてくれた。 だらしない生活をしていると思ったら意外にも部屋は小奇麗に片付けられている。 フリルのついたピンクのカーテン、ところどころおいてあるぬいぐるみや水玉模様のクッションなどがいかにも女の子の部屋といった感じだ。 自分とは対照的なセンスの部屋をながめつつ、文はたてが着替えるのを待った。 壁にかけてある妙にアゴの細い男性同士が絡みあうポスターが気になったが、見ないふりをしてやることにした。 「おまたせ」 やってきたはたてはハーブティーを出してくれた。着替えにしては時間がかかったのは彼女が気を利かせてお茶を淹れてくれていたためだった。 「変な匂いのするお茶ねぇ。ほうじ茶が良かった」 「もてなしてやってんだから文句言うな」 「いい年こいて乙女ぶってんじゃないわよ。フルーツ(笑)」 「あんたより二百は若いわ年増記者」 憎まれ口を叩き合っている割に二人はリラックスした表情だ。 変に気を遣うよりはお互いに言いたいことを言ったほうがかえって信頼出来る。二人はそういう間柄だった。 「で、わざわざ訪ねてくるなんて、珍しいじゃん。何かあったの?」 「ああ。実は……」 苦々しい顔で文はこれまでの経緯を説明した。 お空をかくまっていること。彼女をこのまま自分の家においておきたいこと。天狗仲間の同意を得るためにはたての協力がほしいこと。馬鹿にされたり、頭ごなしに否定されると思っていたが、はたては話が終わるまで黙って聞いていてくれた。 「本気なの?」 じっと文の目をみながらはたては問いかけた。 文は無言で頷いた。 「いいわよ」 あまりにもあっさりとはたては承諾してくれた。 たとえ原稿チェックを頼んでもこんなにあっさりと引き受けてくれるとは思えないくらいに、あっさりと。 「まあ、私は有無をいわさず追い出しちゃうのが一番いいと思うんだけど、あんたが他人に何かをお願いするところなんて滅多に見らんないじゃん?面白そうだから協力してやるわよ」 これは貸しにしとくわ、とはたてはウインクした。 その仕草があまりにも神経を逆なでするものだったので、反射的にはたての顔を殴りそうになったが、どうにかこらえることができた。 「でも私と文だけじゃ心もとないわね。文、犬走には相談した?」 「もみーに?いや、まだしてないけど……」 白狼天狗の犬走椛と文はわりと近しい仲ではあったが、文はあまり彼女に期待していなかった。 真面目で仲間内から信頼されてはいるが、保守的で強い方につきたがる傾向のある彼女がお空を山に留めることに肯定的だとはとても思えなかった。 「もみーが協力してくれるとは思えないわ」 文が正直な感想を述べると、はたては深いため息をついた 「文、あいつとよくつるんでるくせに、あいつのことぜんっぜん知らないのね?」 「どういうことよ」 思わずむっとして聞き返すと、はたては衝撃の事実を語ってくれた。 「あいつは無類の鳥マニアなのよ。暇さえあれば見張り中に鳥の観察記録つけててね。下手したら烏天狗も観察対象にしてるかも。本人は隠してるし、基本的に真面目なやつだから気づいてるやつはあんまりいないみたいだけどね」 「そんな、まさか……」 それは思い過ごしだろうと突っ込みたかったが、よくよく思い返してみれば思い当たる節はいくつも浮かんでくる。観察記録がどうとか言っていたし、自分やお空のことも舐めるような視線で見ていたような……。 「そもそも白狼天狗のくせに烏天狗に愛想いい時点でおかしいと思うべきだったのよ。あいつが私らに好意的なのは烏天狗を間近で観察できて嬉しいからなんじゃないかな。気持ち悪いから私、あいつの上飛ぶときはスカート抑えるようにしてるのよ」 なるほど、はたての言うことは確かに辻褄が合っている。しかし見たくもない椛の一面を知らされてしまった文は唖然としていた。この件に関してはこれ以上深く考えるのはよそう。 愕然としている文を横目にはたてはなぜか本棚を探りはじめた 「まあでも性癖はともかく、あいつは上司にも信頼されてるし、河童にも顔が利くからね。味方につければ強力なカードになることはうってつけよ。……おー、あったあった。もしもし、犬走?」 野鳥図鑑を取り出したはたては、適当なページをめくりながら念写機にむかって喋り始めた。カメラかと思っていたそれは通信機の役割も果たすらしい。 便利な世の中になったものだと感心した次の瞬間、玄関の扉を乱暴に開ける音が聞こえた。 「サバクヒタキがでたですって!?どこ?どこですかはたてさん!」 残念ながらはたての家で犬走椛が見つけることができたのは、ユーラシア大陸の低緯度地方の中央部からアフリカ大陸北部で繁殖し、冬季はインドからアフリカ大陸東部に渡りをおこなうツグミ科の迷鳥ではなく、部屋の奥でにやにや笑うはたてと呆然としている文だけだった。 椛はようやく自分が騙されたことに気がついた。 ==   「もう、だからそんなにむくれないでよ犬走ぃ」 「ひどいですよ、勤務中だったのに」 「あなたは珍しい鳥がでたら勤務放って見にいくんですか……」 文句を言いながらもちゃっかり上がりこんでお茶までいただいている椛をはたてがなだめる。 文はと言うとあまりの超展開にもはや放心状態だった。 「そ、そうそう、あんたを呼んだのは他でもない、鳥類保護に貢献して欲しいからよ」 椛の耳がぴくりと動いたのをはたては見逃さなかった。 今がチャンスとばかりに、ぐったりしている文に代わってこれまでの経緯を椛に説明する。 しかし、椛は頑として首を縦に振らなかった。 「嫌ですよ。これまでも私は文さんの越権行為を黙認しているんですよ。いくら地獄烏を間近で、しかも無期限に見せていただけるとはいえ、これ以上厄介事に巻き込むのは勘弁してください」 「犬走、その話後でくわしく」 「ああっ、もう!」 文は後悔していた。やっぱりはたてや椛に相談するんじゃなかった。 下手をすれば椛が上層部に告げ口をして計画がここで破綻してしまうかもしれない。 効率は落ちるがやはり自分は誰も頼らない方が良かったのだ。 とりあえず椛にはなんとかこの件を口止めしてもらい、新たな対応策を考えないと。 文はすでに勧誘を諦めかけて次の対応策を考え始めていた。 だから次に椛から発せられた言葉を聞いたとき、文は思わず自分の耳を疑ってしまった。 「協力しますよ、文さん。成功したら地獄烏の論文書かせてくださいね」 椛ははっきりとそう言った。声色はいかにも不機嫌。険しい表情もくずしていない。 だが椛の心の内は左右に振れる尻尾が雄弁に物語っていた。 三人の思いが重なった瞬間だった。