しかし、別れの時は突然やって来た。 お空が日記をかいている最中、お茶を入れようと台所に立った文が再び部屋に戻ろうとしたとき、お空が誰かと会話していることに気がついたのだ。 「お燐、ありがとう。でもね、私お燐と一緒は行けないの。お姉さまをひとりにするわけにはいかないから」 ふすま越しに聞こえる二つの声。ひとつはお空の声。もうひとつは聞きなれない、でも記憶のどこかにある声。 ――地霊殿の猫だ! お空の親友であると同時に彼女がここに来るきっかけをつくった猫――たしかお燐といっただろうか――がお空に会うために地上に出てきたのだ。 考えてみれば当然のことだ。もともと空は地下の妖怪であるから、お燐が連れ戻しに来るのは不思議ではない。 だがお空は残ると言ってくれている。新聞記者として誰からも嫌われた自分を好きだといってくれたお空が。 嬉しくて涙が出そうだ。できればずっと一緒に暮らしたかった。 しかしそうしたらお燐はどうなる?危険を犯してまで空を探しに地上へきたお燐。 無二の親友なしに地下で暮らさなくてはいけないお燐の気持ちは? 文は別れを決意した。 お空と重ねてきた思い出が頭をよぎる。 質問攻めの日々。 すぐに出ようとしてしまうお風呂。 初めて「お姉さま」と呼ばれた時の戸惑い。 いつの間にかきれいに片付けられた部屋。 使用頻度の増えた漢和辞典。 花火を見上げながら大好きだといってくれた時の穏やかな笑顔。 お空が勝手に撮ったピンぼけの自分の写真。 そのどれもが、お空が最初に持ってきた宝物のようにきらきらと輝いている。 今まで他人を拒んできた文が、初めて誰かと一緒に過ごした優しい日々。 その思い出を全部胸の中に押し込んで、零れそうになる涙を意志の力でなんとかせき止める。 文は勢いよくふすまを開いた。 「やれやれ、やっと保護者が迎えに来てくれたわね」 「その声はお姉さま!?」 部屋には空ともうひとり、黒い服を着た猫の妖怪がいた。間違いない、異変の張本人のあの猫だ。 泣きはらしたのだろう、その目にはまだ涙をたたえている。自分の選択は間違っていない、と文は自分の心を奮い立たせた。 「丁度よかったわ。その邪魔な地獄烏を連れだしてちょうだい」 信愛する文から突然投げかけられた残酷な言葉。とまどうお空の視線が文の心をつらぬく ――なにを言っているの?わけがわからないよ? 彼女の見開いた目はそう訴えかけているように見えた。 「部屋の掃除をするから便利かなとも思ったけど、私のいくところちょろちょろついてきて邪魔をするし、あげくの果てには大事なカメラを勝手にいじくられて壊されそうになるし。もう我慢の限界。追いだそうと思っていたところよ。」 まるで自分の心を削りとっていくようだった。声は震えていなかっただろうか?嘘がばれていないだろうか? 確認するすべもなく、文はそのまま死刑宣告にも近い言葉を吐き出さなければならない。 「あなたなんか大嫌い、とっとと消えてくれないかしら」 ――これでうーちゃんは私を嫌ってくれる。 文は安堵した。今は少し傷つけてしまうかもしれないが、これならば地上に未練が残ることもない。 私は大丈夫。疎まれるのには慣れているから。嫌われるのが当然だから。きっとこれでいい。 しかし返ってきたのは意外な言葉だった。 「ううん、わたしは帰らないよ」 「え?」 思わず聞き返してしまった。心を削る思いで吐き出した言葉すべてが無駄になったと知り、文の頭の中は焦燥感で真っ白になる。何とかして嫌われなければ。地下に追い返さなければ。そんな文の思いとは裏腹に、お空は残酷にも優しい言葉をかけてくれる。 「お姉さまは無理してるよ。おりんがかわいそうだから、自分がわるものになるつもりなんだよね。でもそんなのダメ。このままだとお姉さま、ひとりでいるとこれから先もっと無理しちゃうよ?だから私、ほっておけないよ」 「そんなことは……」 「負けを認めなよ、お姉さん」 呆然とする文の肩をお燐がぽんと叩く 「こいつは案外鋭いんだ。お姉さんの嘘なんてすぐにバレるさ」 ま、あたいにもバレバレだけどね、とお燐は肩をすくめた。 「あたいはお空に謝りにここに来たんだよ?お空が怒ってないってわかったからもう十分さ。お空はお姉さんと一緒にいたい。お姉さんはお空といっしょにいたい。それでいいじゃないか」 文の膝から力が失われ、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。 せき止めていた涙があふれだしていく。嬉し涙か悔し涙かはわからなかった。 お空の柔らかい腕が泣きはらす射命丸の体をそっと包む。抱きあう二人の頭をお燐がそっとなでた。 「うーちゃん……うーちゃん……」 うわごとのようにお空の名を呼びながら彼女の肩に顔をうずめる。 とめどない涙が文の顔だけでなく、お空の肩もぐしょぐしょにしていく。 お空もお燐も何も言わず、ただ穏やかな瞳で、いつまでもいつまでも泣きじゃくる文を抱きしめていた。 == 「……そこで、おてんが降ってきてみすちーが潰されちゃってさぁ」 「ふむふむ。しかし、まさかお燐さんがみすちーや天子さんと知り合いだったとは思いもしませんでしたよ。世間は狭いものですね」 「ていうかお姉さんの知り合いが多すぎるんじゃないか」 「あやぁ。まあ仕事が仕事ですから」 その晩、文はお燐と二人で盃を酌み交わしていた。 今後のことを話し合う必要もあったし、お空になつかれていた者どうし一度お互いにゆっくりと話してみたいという願望があったのだ。喋り好きなお燐と、いわば聞くことが生業の射命丸。話が弾まないわけがなく、留まることのないふたりの会話はお空が飽きて先に眠ってしまった後も続いていた。 お燐の冒険譚が終わり、だいぶリラックスしてきたところで彼女が切り出した。 「ところでお姉さん、これからどうするんだい?」 お燐がちらりと視線をふすまに送る。ここからでは見えないが、隣の部屋ではお空がすやすやと安らかな寝息をたてているはずだ。 同じく視線をふすまに向けた文から力強い声が帰ってくる。 「愚問ですね。うーちゃんが望むなら、どんな手を使ってでもうーちゃんをここに留めてみせますよ」 文に迷いはなかった。お空が残ってくれると言っているのだ。 そんな彼女の気持ちをもう無駄にはしたくなかったし、なにより文自身がお空といっしょに暮らしたかった。 「穏やかじゃないねぇ。まあ落ち着きなよ。これは地上の妖怪だけじゃなくて、地底の妖怪も関わってくる問題だろう?お姉さんの実力はあたいも知っているけれども、だからといってひとりでどうこうできる問題じゃないよ」 お燐に諌められ、文はいつになく熱くなってしまっている自分に気がついた。 少し前までは考えられなかったことだ。酒の勢いなのだろうか。 「まあ、そうはいっても、地下の連中は大雑把だからたぶん気にしないはずだし、あまり心配しなくてもいいんじゃないかな。お空がいなくなって困るとしたらさとり様くらいか。まあこっちはあたいがなんとか説得してみるよ。むしろ問題なのは地上の連中だと思う。その辺はあたいよりも姉さんの方が詳しいんじゃないかい?」 「そうですね。昔ならともかく、先の異変で地下と地上の妖怪の取り決めは形骸化してしまいましたから、妖怪が地下からひとりやふたり出てきたところで気にする人物はもうそれほど多くないと思われます。いるとしたら八雲紫や紅魔館の連中くらいですかね」 「針出してくるおば……お姉さんとか、いろんな弾幕が使えるお姉さんのことかい?」 「ああ、そういえば彼女らも地下へ行ったんでしたね。それならばうーちゃんの対処法はもう把握しているはずだし、そもそも妖怪の山にはあまり干渉したがらないでしょうから、さしたる問題にはならないはずです」 「お空に力を与えた山の神様はどうかねぇ?」 「今のところは沈黙を守っていますが、ここに住まわせるとなるとどうなりますかね。天狗仲間の目もごまかしきれなくなってくるだろうし、河童もどうでるか。当面の問題は妖怪の山の連中ということになりますね」 文の胸に不安がよぎった。 人間や他の妖怪の間では顔の広い文であったが、天狗の組織内でのやりとりは正直なところあまり得意ではなかった。 彼女は今まで、あえて人間の里や他の妖怪を取材対象にすることで天狗内の複雑な力関係から距離を置いてきた面がある。そのため、出世コースからは外れているものの――彼女くらい古参の天狗であれば組織の重鎮でも不思議ではない――天狗間のあつれきにあまり縛られることなく、比較的自由に過ごすことができたのだ。 ところが今、それが仇となってしまっている。 果たして、組織内に大して顔の利かない文の主張がどれほどまで受け入れられるものだろうか。 心細さで無意識のうちに顔がこわばってしまう。 「お姉さん、会ったばかりのあたいが言うのもなんだけれど、あんたはあまりひとりで抱え込み過ぎないほうがいいんじゃないかい?」 こちらの心を見透かしたようなお燐の言葉。文は思わずはっと目を見開いた 「あたいがここまでお空を探しに来られたのはたくさんの人の助けがあったからさ。確かに、天狗連中の間で何があるかはあたいにはよくわかんないから、あまり偉そうなことは言えないのかもしれない。でも自分の力だけでどうしようもないときは誰かに頼ってもバチは当たらないと思うよ?」 お姉さんは生真面目なんだからさ、とお燐は肩をすくめた。 「まったく、うーちゃんといい、あなたといい、地下の妖怪ってなんでこんなにお人好しなんですかねぇ」 ため息混じりに皮肉っぽくつぶやいて、にやりと口元を歪めてみせた。 好意を込めた皮肉というものがあることを、文は長い人生の中で初めて知った。 「そうでもしないと、無法地帯では生きられないのさ」 そんな皮肉にもにっこりと目を細めて、まさに猫のような笑顔で応えるお燐。 二人の間に奇妙な連帯感が生まれていた。 「さて、方針もだいたい固まって来ましたし、もう少し呑みましょうか」 「お、いいねぇ。さとり様はその辺キビシイから」 「ところで、うーちゃんが逃げ出したときあなたは何をしでかしたのですか?」 「うう、それは……」 妖怪の山の片隅にある小さな小屋では、夜遅くまで二人だけの酒宴が続けられていた。