一息つこうと原稿から顔をあげた射命丸文は、時計をみて愕然とした。 「うそ!もうこんな時間!?」 いつもよりも早く起きたからと、原稿の推敲を始めたのがまずかった。 お空がもう配達から帰ってくる時間だというのに、まだ朝食の準備も、その後の取材の準備もしていない。 彼女に新聞配達を任せられるようになってから文はもっぱら取材と原稿に集中するようになっていたが、つい執筆に熱が入り、時間を忘れて作業してしまうのは盲点だった。 あわてて立ち上がり手帖をひったくると一枚の写真が舞い落ちた。 裸の自分が写ったピントのあっていない写真。時間的余裕はないはずなのに、思わず手にとって眺めてしまう。 「もう一年になるのね」 そう。 空と文が共に執筆活動を始めてからもうすぐ一年になる。文はそのきっかけとなった事件のことを思いだしていた。妖怪の山で起こった小さな、しかし自分にとっては大きな転機となった事件のことを == 始まりは一年とすこし前。冷たい雨が降りしきる皐月の末のことであった。 「あやや、夕立でびしょびしょですよ」 その日は夕方から急に雨が降りだし、文は取材を中断して家に帰ることを余儀なくされたのだ。 濡れた衣服を脱ぎ、明日の天気の心配をしながら髪の毛を乾かしていた時のこと。 弱々しくドアを叩く音が聞こえたのだ。 こんな雨の中尋ねるものがあるのかと、訝しげにドアを開けた彼女は、そこでずぶ濡れの地獄烏を見た。 それが霊烏路空だった。 豪雨の中返すわけにも行かず、文は雨と泥でドロドロに汚れた彼女をとりあえず湯浴みさせ、彼女の服と体が乾く間、話を聞いてみることにした。 「なるほど、親友がこわくなって出てきたのですね」 お空の語った私利破滅な文章をつなぎあわせて推測すると、そういう結論に達した。 親友が具体的に何をしたのかは結局わからずじまいだったが、がたがたと震え、多くを語ろうとしないその姿は、彼女がよっぽど怖い思いをしたことを雄弁に物語っていた。 その頼りなげな姿は、数カ月前に文が見た、核融合の力を手に入れて巨大な弾幕を操っていた自信と威圧感に満ちあふれた地獄烏と同一人物とはとても思えなかった。 「申し訳ございませんが、私にはどうすることもできませんねぇ」 文は新聞記者である。事件に首を突っ込んで記事にするのは仕事の内だが、介入したり解決したりするのは専門外どころか立場上避けなければならない。 しかも、お空は強力な力を持った忌み嫌われた妖怪である。 今は大人しくしているように見えてもいつ牙をむくかわからない。かわいそうだが、追い払うのが懸命である。 するとお空は冷たく言い放った文に向かって両手を差し出した。 「わたしの光物コレクションあげるから!」 両手の上にはおそらく彼女の唯一の宝物であろうガラスの欠片や商品価値の出そうにない歪んだ真珠などが山盛りになっている。 この賄賂が通じそうな相手を足りない頭で必死に考えた結果、彼女は烏天狗の文を頼ったのだろうか。それならばわざわざ地上へ出てきたことにも納得がいく。 今放り出したら彼女はどうなるのだろう。 地下に戻ることもできず、地上にも他に頼るものはない。 お空の顔はせっかく湯浴みをして綺麗にしたというのに、再び涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。 「わかりました、しばらくここで一緒に暮らしましょう」 次の瞬間、文はお空の両手を握りしめていた。  == それから、二人の奇妙な同棲生活が始まった。 お空が制御棒を忘れて核融合ができなくなっていたことが幸いし、文の上司は、お空を文の監視下に置き、報告書を定期的に提出すること、彼女が地上へ出てきた原因が取り除かれしだい地下へ返すことを条件に、お空を文のもとに置くことを黙認してくれた。 とはいうものの、今まで一人で勝手気ままに生活してきた文である。始めのは手を焼かされることばかりだった。 知らない相手と共に暮らすこととなった場合、普通は多少の遠慮が入るものだが、お空の場合は遠慮がなさすぎた。 初めて見る地上世界が珍しいのか、部屋においてある取材道具や家具一式など物珍しいものを見つけては触ろうとして文を慌てさせ、原稿を書いている間でさえ一挙手一投足についていちいち質問をしてくるのだ。 特に困らされたのは取材のときまで勝手について来ることだった。 部屋に閉じ込めて暴れられても困るので黙認していたが、出先でも文を質問攻めにするので取材どころではなくなってしまうのだ。 律儀にもそのひとつひとつにきちんと対応してしまった文は、最初の一週間くらいはぐったりして仕事にならなかった。 新聞も休刊せざるを得ず、ただですら少ない購読者がますます少なくなってしまった。 だが、お空のペースにある程度慣れてくると、文は彼女の感性に驚かされた。 自分が今まで気にもとめなかったものにも彼女は目を向けるのだ。 葉っぱはなんで緑色をしているの?雨のにおいはどこでつくの?虹の端っこはどうなっているの?魚はなんで水の中で息ができるの? 文は答えられる質問はその場で答え、分からない質問はお空といっしょに考えたり、調べたりして、彼女の質問のひとつひとつに真摯に向きあったのだ。 そんな文のことをお空は「お姉さま」と呼んで慕うようになった。彼女なりに恩義を感じたのか、文の言うことをよく守るようになり、留守番もできるようになった。 文の留守中に彼女が苦手だった掃除を代わりにやってくれたことには驚かざるを得なかった。 「新聞記者は常に第三者でなくてはいけない」 新聞に並々ならぬ情熱を注ぎ、公平であるために常に他人から距離をおいてきた文だったが、自分に懐いているお空を悪く思えるはずもなく、やがて彼女を「うーちゃん」と親しみを込めて呼ぶようになっていった。 二人の距離はますます縮まった。文は日記という名目でお空に報告書を書かせることで、彼女に知識を吹き込んだ。 覚えは悪かったものの、お空も文の指導のもと、日課をかかさずにこなした。 二人で外に出ることも多くなった。 先の異変で湧きだした温泉にでかけたり、ミスティアの新メニューの試食をしたり、咲き始めたひまわりの花を太陽の畑まで見に行って風見幽香に追い回されたり。 禁を破ってこっそり人里へ花火を見に行き、椛にこっぴどく叱られることさえあった。 いつしか彼女たちは本当の姉妹のようになっていた。