淡水真珠の恋のお話 これはどこかとおいところにある里の、とても汚れた湖に住むひとりの人魚のお話。 その里にはひとつの湖がありました。ほとりに赤いお屋敷のたっている、小さな湖です。 その湖はとても汚れていました。ただ汚れているだけではなく、汚れを栄養にして繁殖した赤い藻が湖の酸素をうばって代わりに毒を吐き出していたのです。おかげで湖はますます生き物の住めないよごれた水になっていて、かろうじて生きられるのは妖怪に片足を突っ込んでいるようなナマズやらガマガエルやら妖精くらいなものでした。 そんな死の湖にひとりの人魚がすんでいました。 ふつう人魚は海に住むものです。湖に住んでいる人魚などみなさんは見たことも聞いたこともないでしょうが、湖から出られずに酸素不足で死んでいったわかさぎたちの想いが人の形をとったのでしょうか(この国ではよくあることです)。とにかくこの湖には人魚が住んでいるのです。 歌を歌うのが好きでしたが、海の人魚とは違ってそれで人を狂わせるでもなく(歌で人を狂わせる妖怪は他にいましたから)、他にすることといったら形のいい石をあつめて眺めるくらい。 そんなふうに、大人しく風変わりな人魚でしたが、一つだけ他の人魚と同じ事をしました。 彼女は恋をしたのです。 人魚は叶わぬ恋に身を焦がすもの。おとぎ話ではそう相場が決まっています。 湖の人魚もご多分に漏れず恋をしました。白い衣の美しい天女に。 それは真夏の暑い日のことでした。 とてもとても暑い日で、人魚は暑さを避けるために普段は行かない湖の端の森のほとりまで来ていました。 そこは汚れきった湖のなかではただ一箇所、透き通る水がこんこんと湧き出ている場所でした。 藻の発するひどい匂いを避け、涼みに行った人魚はそこでいるはずのないものを見つけました。 水浴びをする、裸の女です。 海の色を映したような青い髪。サンゴのような赤い瞳。イルカのようななめらかな肢体。女はこの世のものならざる美しさでした。 人魚は息を飲みました。自らの美しさにはちょっとは自信がある方でしたが、彼女と比べてみると月とスッポン。ワカサギとリュウグウノツカイ。 きっとこれが話にきく天女なのだろう、彼女はそう思いました。 物陰に隠れながらよくよく見ると女は何か一生懸命に探しているようでした。 豊満な胸を抑えながら、自由の利かない水の中を懸命に歩きまわり、水底をのぞき込んでいます。涼やかな美貌には明らかに焦りの色が浮かんでいました。 「どうしよう、うっかり羽衣を失くしてしまいました。これでは龍神様に合わせる顔がありません」 ひとりごとから察するに、彼女はやはり天女のようでした。確かに、岸辺のどこを見渡しても脱いだらしい衣服はどこにも見当たらないのでした。 天女は水浴びをするもの。そして羽衣を落としてしまうもの。おとぎ話ではそう決まっています。そしてその先に待ち受けているものは…… 彼女の末路を想像した人魚はこころを痛めました。臆病ですが、心のやさしい人魚だったのです。 「あの」 投げかけられたか細い声に、稲妻に打たれたようにびくりと肩を震わせた天女。慌てて振り返ると、水の上に一人の女が立っていました。 相手が女だと知ってほっと息をついたのもつかの間。水の上にはみ出している脚に鱗があるのに気づくと、天女は凍りつくような視線で相手を睨みつけました。 「妖怪変化ですね。私を捕らえて食べるつもりでしょうか?忠告しておきますけれども、私は雷を落とすことができるのです。黒焦げにされる前に立ち去るのが賢明ですよ」 人魚は恐怖と緊張とで爆発しそうになる心臓を抑えながら精一杯の声を張り上げました。 「違います!貴女の失くした羽衣を、私にも探させて欲しいのです。もしかしたら深いところまで流されていってしまったのかもしれません。妖精の悪戯で隠されてしまったのかもしれません。私は湖の隅から隅までよく知っています。探してみましょう」 「見返りは?」 天女はめったに人を信用することのない性格でした。妖怪変化が親切をほどこすなど、なにか裏があると考えたのです。 人魚は困ってしまいました。お人好しの彼女は親切に見返りをよこされるなど考えてみたこともなかったのです。 ちょっと考えた後、人魚はこう返しました。 「そうですね、それでは天のお話を聞かせてください。湖にはお友達もみんないなくなってしまって、私はすこしさびしいのです」 あまりにも虫のいい話でしたので、天女はますます訝しく思いましたが、他にこれといって解決策があるわけでもありません。 彼女はしぶしぶながら人魚に羽衣の特徴を教えました。人魚は少しはにかむと、深い湖の底に消えて行きました。 「あったわ」 思いの外、羽衣ははやく見つかりました。濁った水の中では彼女の白い羽衣はよく目立ちます。 羽衣は湖の底に沈んだ流木に引っかかっていました。 きっと羽衣を餌と間違えたいやしんぼうのオオナマズかなにかが水底に引きずり込んだ後吐き出したのでしょう。 持ち帰った羽衣を見た時の天女の喜びようったらありませんでした。 二人は綺麗な水で羽衣についた藻をていねいに落とし、マツの枝にかけて乾かしました。 羽衣を乾かしている間、約束通り天女はいろいろな話をしてくれました。 穏やかで喜びに満ちた天界の話。 地上の妖怪や人間たちのおもしろおかしい日常の話。 そして、美しく聡明な自分の主の話。 濁った湖から一度も出たことのなかった人魚にはそれはそれは胸が踊るような話でした。 人魚はふたつの目を真珠のようにきらきらと輝かせて、天女の話に聞き入るのでした。 あまりお喋りとはいえない天女でしたが、人魚があまりにも嬉しそうに自分の話を聞いてくれるものですから話につい熱がこもります。 しまいには得意のダンスまで披露してくれる有様でした。 太陽が西に傾く頃には羽衣は乾いてすっかり元通りになっていました。 「貴女のおかげで私も天に帰れます。本当にありがとう」 「どういたしまして、天女さん」 人魚はいつまでも天女とお話をしていたかったのですが、引っ込み思案な性格でしたので、また会いたい、の一言がどうしても言えませんでした。 天女は羽衣をまとい、もういちど人魚に頭をさげると、そのまま空へと帰ってしまいました。 さて、そうして天女とわかれた後でも、人魚は彼女のことが忘れられませんでした。 人魚は話をしていた時の天女を思い出します。美しいほほ笑みを浮かべた彼女の横顔を。 その笑顔は波間から漏れる光のように輝いていて、その声は穏やかな波のさざめきのように透き通っていました。 「綺麗な天の世界に住んでいるからあんな笑顔が出来るんだろうな」 それに比べて自分はどうでしょう。 青い髪の毛は水底の藻のようにごちゃごちゃと絡まっていて、脚の鱗は濁った水のように鈍く冴えない光を反射するばかり。 人魚は汚い湖の中から一歩も出たことのない、みすぼらしい小さな一匹の魚に過ぎないのでした。 天女の姿を思い出すたびに、そして湖に映った自分の姿を眺めるたびに、人魚は陸に打ち上げられた魚のように苦しくなります。 「美しいあの人は天の御遣い。私は汚い湖のちっぽけなお魚。とっても釣り合うものではない」 勝手にそう決めつけて、人魚は岩の影で涙にくれました。 すると、不思議なことがおきました。人魚の流した涙は湖に落ちたとたんきらきらと輝く真珠へと姿を変えたのです。 人魚の悲しみが増せば増すほど、真珠は美しく輝きました。まるで閉じ込められた人魚の悲しみがそのまま輝きになったように。 こぼした涙はやがて湖畔に流れ着き、殺風景な湖畔には少しずつ真珠の粒が溜まって行きました。 はじめに異変に気がついたのは赤いお屋敷のメイドでした。 「淡水真珠を作り出す二枚貝すら住まなくなった湖なのに、何故かしら?」 不思議には思いましたが、それ以上の疑問は抱かず、むしろ主へのいい貢物ができたとよろこびました。 真珠は日を追うごとに増えていき、やがて湖畔の砂の合間がきらきらと光って見えるほどになりました。 噂を聞きつけた何人もの人間が真珠目当てに湖に近づき、妖怪に襲われて命を落としていきました。 天女が湖で人魚に出会ってからどれだけの時間が流れたでしょう。不思議な淡水真珠のお話はやがて天女の住むはるか天の彼方まで届きました。 天女の主は美しく、聡明ではありましたが、とてもわがままなお姫さまでした。噂を聞きつけると、さっそく天女に採りに向かわせました。 「やれやれ、総領娘さまのわがままにも困ったものです。同じ姫でもこの湖の人魚姫とは大違い。少しは彼女のおしとやかさを見習っていただきたいものですね」 愚痴をこぼしつつも仕事は仕事。天女は赤い湖に舞い降りました。 真珠を探して湖畔を歩いていくと、やがて天女は岩陰で泣いている人影をみつけました。それはいつぞやの人魚でした。 「さて、困りましたね」 天女は人魚に話しかけるのを躊躇いました。 人魚が嫌いなわけではありません。むしろ、羽衣を探してもらったあの日以来、天女も人魚のことを憎からず想っていたのです。 ただ、天女はその場しのぎの嘘をつく癖がありました。あのとき人魚に語った美しい話はほとんどが嘘だったのです。 彼女は本当は、天人も、人間たちも、もちろん妖怪も、ろくなものではないと思って見下していました。 でも人魚があまりにも親切でしたので、彼女をを傷つけるようなひどい話はどうしてもできなかったのです。 バツの悪さから天女はかける言葉を見つけることができず、どうしたものかとしばらく考えながら人魚を見ていました。 そうやってずっと人魚を見ていた彼女は、やがてとんでもないことに気が付きました。 波間にこぼれおちた人魚の涙。それらはみるみるうちに真珠になって、流されていくではありませんか。 湖畔の真珠はすべて彼女の流した涙だったのです。真珠の量から察するに、人魚は毎日毎日泣き暮らしているのでしょう。 このままでは異変を解決しにやってきた巫女に退治されてしまうか、もっと悪ければ強欲な人間たちに捕まって一生泣き暮らすことになってしまいます。 なんとかして泣き止ませなければいけません。 意を決した天女は夢中になって泣いている人魚に話しかけました。 「あなたはなぜ泣いてばかりいるのですか?」 びっくりしたのは人魚の方です。自分の想い人に突然話しかけられて嬉しいやら恥ずかしいやら。真っ赤になってうつむくばかり。 天女は人魚が話したがらないのを見てとると、仕方なくお得意の忠告を聞かせました。 「いいですか?どんな悲しいことがあったのかは知りませんが、みんなみんな、心に苦しみを閉じ込めたまま、涙を浮かべずに必死に笑っているのです。貴女一人が辛いわけではないのです。簡単に泣いてはいけませんよ」 俯いていた人魚は泣き止んで、かぼそい声で聞き返しました。 「すてきな笑顔の、あなたもそうなの?」 天女は一瞬言葉に詰まりました。 もしも本当のことを言ってしまったならば、人魚は自分に失望するでしょう。 それならばまだしも、繊細な彼女のことです。心を痛めてますます泣き暮らすことになってしまうかもしれません。 かといって、ここで自分の心を晒さなければ彼女が納得して泣き止むことはないでしょう。 天女は覚悟を決めました。 「ええ、私の心だって同じです。この湖のように淀んで、どす黒く濁りきっているのです」  天女は視線を逸らしながら苦しそうに自分の胸の内を吐き出しました。 「あの時私は嘘をつきました。親切な貴女の心を傷つけたくなかったから。私の語ったお話は、みんなみんな嘘だったんですよ」 そして苦虫を噛み潰したような表情で、申し訳なさそうに話をつづけました。 穏やかな笑顔の裏で脚の引っ張り合いと出世競争に明け暮れる天人たちのこと。 誰かを傷つけることに喜びを感じ、馬鹿騒ぎに興じる地上の妖怪や人間たちのこと。 自分勝手で他人の気持ちなど露ほども考えない主のこと。 そして自分が心のなかでは彼らをどれだけ馬鹿にして、見下しているのかを。 それは天女がかつて語った話とはまるで真逆の、胸が苦しくなるような話でした。 人魚は怯えながら、涙を流しながらも天女の話を最後まで聞いてくれました。 そしてなぜか最後ににっこりと笑ったのです。 天女は訝しく思いました。 「どうして貴女は笑うのですか?こんなにも醜い話をしたのに。現に貴女は、話を聞いている最中はあんなに怯えたではありませんか」 天女が問うと、人魚はやっぱりか細い声で途切れ途切れになりながらこう言うのでした。 「私が泣いていたのは貴女に恋をしてしまったから。でもね。私と貴女とは住んでいる世界が違う。私は貴女に釣り合わない。そう決めつけて毎日泣いていたのです。 だけど今回、貴女も私と同じように汚れた水の中を必死に泳いでいることがわかりました。そしてそんな中でも私のことは悪くいわなかった。私はそれがうれしいのです」 屈託のない人魚の笑みに、天女ははっと目を見開きました。 サンゴの欠片のような赤い色の瞳から、透明な鱗のような涙がこぼれ落ちました。 「こんなに汚い湖に住んでいるあなただから、私の心を覗いても平気なのでしょうか」 そしてにっこりと笑いました。人魚の大好きな穏やかな微笑みでした。 天女の笑みを見て人魚もまたほほえみを返します。青い宝石のような瞳の端からは涙がこぼれ、波間に溶けてゆきました。 その後、赤いお屋敷の前の湖には人魚が増えたとも、いなくなったとも伝えられていますが、人によって言うことがばらばらで定かではありません。 ただひとつ確かなことは、湖畔に真珠が流れ着くことはなくなって、それからは湖に近づいて命を落とす人間たちもいなくなったということだけです。 これはどこかとおいとおい里にある、とても汚れた湖の、ちっぽけな真珠のような恋のお話