マイ・ディア・レインディア ~オーロラの下のドンダー~ 「いやはや、こんな別嬪な女子が薬を届けに来てくれるとは。儂の命も来年までもつかわからんの」 そう言って、目の前の爺はシミだらけの顔を紙くずのようにくしゃくしゃに歪ませた。 汚らしい年寄り特有の退屈な話を、もう長々と聞いてしまっている。 「まあ、別嬪だなんて、ご冗談を」 適当な笑顔を取り繕うのは社会に生きるものの必須スキルだが、かといって必要以上に話を長引かせるのもよろしくない。 「えっと、人を待たせているのでそろそろ御暇しますね。それではおじいちゃん、よいお年を」 もういちど、形ばかりの笑顔を作って、私は家を後にした。師走の冷たい風が体を突き刺す。 Regalecus glesne は Notothenia属魚類のように細胞不凍液を持ってはいない。 このままでは冷凍船に乗せられてそのまま築地に卸されてしまう。ああ、暖かな海が恋しい。 「いーくー?おっそーい」 身の不幸を嘆く暇もなく、寒さを感じる神経すら備えていなさそうな声が私の鼓膜を逆なでした。 「すみません、総領娘様、お話が長引いてしまって」 「もう、ジジイの相手なんか適当に切り上げちゃってさ、さっさと配っちゃいましょうよ」 能天気なわがまま娘、比那名居天子だ。 そもそもこいつのおかげなのだ。私がこんな寒い中置き薬を補充しに廻らなければならなくなったのは。 == 「助けてください」 どこぞのロリコンが描いた童話よろしく、慌てた兎が駆け込んできたのはついぞ一週間ほど前。 脱走兵の分際でよくおめおめと天界にまで顔を出すなど、よっぽど馬鹿なのか、それとも止むに止まれぬ事情があったのか。 少なくともその図太い神経に私は敬意を表する。 さて、兎の止むに止まれぬ事情というのは、師走の労働力の工面であった。 師走は、とにかく忙しい。 時間感覚などなく、常にのんべんだらりとした生活を送っているかに思える永遠亭の連中も例外ではないようで、兎どころか彼女の師匠も文字通り走りだすような忙しさらしい。 兎が死の危険を冒してまで助けを求めて来るのだから、よほど悲惨な状況だったのだろう。 せめて、置き薬の補充業務だけでも人手が欲しい、と、いうわけで暇を持て余していることで有名な総領娘様に声をかけたらしい。なんと偉大なる総領娘様の評判は地上にまで轟いているのだ。悪い評判が。何かもっと優先的に働かせるべき人員が近くに(文字通り)眠っているような気もするのだが、空気を読んで考えないことにした。 「面白そうね」 それはともかく、もとより退屈している総領娘様である。兎の申し出を断るわけがない。 兎の主人、蓬莱山輝夜と八意永琳はかつての月の重鎮である。 彼女らの頼みとあっては天人たちも無碍に出来るはずもなく、かといって悪名高き不良天人を一人で行かせると何をしでかすかわからない。 というわけで、総領娘様のお目付け役として、彼女と親しい(と、周りは思っているらしい)私が駆りだされたのだ。 つくづく、権力者というのは、人を振り回すのが好きらしい。 == そんな私の気苦労など気にするわけもなく、総領娘様はごきげんだ。 「ふふーん♪かわいいでしょう?輝夜と相談して作ってみたんだ」 その理由はいつもとは違う、真っ赤な衣装。「サンタクロース」という西洋の聖人をイメージした衣装だ。 薬を売るだけだというのに馬鹿みたいな格好だが、これも年末営業の一環だそうだ。 「はあ。確かにお似合いではありますね。せっかく聖人の衣装を模しているのですから、中身も備わってくださればよろしいのですが」 そう、黙っていれば可愛らしい総領娘様。似合っているのは事実だ。 もっとも、着ている本人は聖人君子とは程遠いのだが。 「ありがと♪衣玖もすっごく似合ってるよ。かわいい」 「ああ、いいように使われる私にはトナカイがお似合いっていう意味ですね。ありがとうございます」 私はというと、いつもの触角つきの帽子の代わりに枝角のついたバレッタをつけていた。 サンタクロースのソリを引くトナカイのイメージらしい。 ……なるほど、総領娘様に引っ張り回される私にはぴったりの衣装だ。 もちろん、着せた本人に悪気はない。それだけに余計たちが悪い。 せめてもの仕返しに精一杯の嫌味を返したが、総領娘様には馬耳東風。 重くなっていくトナカイの足取りとは対照的に、サンタ娘の足取りは軽やかだ。 「ねえ衣玖」 「なんですか、総領娘様」 「寒い」 それゃ、そんな痴女みたいに短いスカートをはいているのだから、寒いに決まっている。 私は黙って、自分の羽衣を彼女の首に巻きつけてやった。 ああ、いっそこのまま絞殺してやればお互いに楽になれるのだろうに。 そうすれば、彼女はあの世で、私はこの世で、厄介ごとから解放される。 だが、曲がりなりにも、彼女は私の上司(正確にはその娘)なのだ。 できる女、永江衣玖は一時の感情で出世を棒に振る訳にはいかないし、そもそも首を締めた程度でゴキブリ並みに生命力のある天人を殺せるわけがない。 「ありがとう。でも、これじゃ衣玖が……」 「かまいませんよ」 言い訳など聞きたくない。本当に悪いと思っているのだったら、最初から口に出さなければいいのだ。 彼女の話をさえぎって、私は足をはやめた。 「あ、待ってよ、衣玖ぅ!」 ため息が、白かった。 == 重い荷物を背負いながらも、人の波をかきわけて次の家へと足早に歩いて行く。 暗い街の中、ちかちかと点滅するイルミネーションが、まるでホタルイカの大群のように流れていく。 そして光に浮かび上がる…… 一つのマフラーを二人で巻いているカップル。 お互いのぬくもりがあれば手袋なんて必要ない、とばかりに素手で手を握り合うカップル。 人目をはばからず熱いベーゼを交わすカップル。 カップル! カップル! カップル! く そ ! ! ! ! だいたい、私が泳ぐべきは雲の海であって、断じてカップルの海ではないはずだ! いっそのこと遊泳弾で貴様らもイルミネーションに加えてやろうか! ああ神様、知性のかけらもないような地上の連中には相手がいるというのに。 どうして、容姿端麗、品行方正、成績優秀、百戦錬磨のこの永江衣玖にはふさわしい相手が現れないのでしょうか。 どうして、素敵な恋人ではなく、わがまま娘の世話を押し付けられるのでしょうか。 海底の熱水噴出孔のように、私の中に熱い衝動が湧き上がったが、しかし、師走の夜道におおよそ似合わない可愛らしい声が、熱水の噴出を押しとどめた。 「あの、すみません、このあたりに本屋さんはありませんか?」 足を止めて見下ろすと、そこには女の子の二人連れ。 片方は帽子を目深に被った赤いおさげ。もう片方は人形のように可愛らしいプラチナブロンド。 親に捨てられたのか、と、一瞬同情の念が沸き起こったが、それはすぐに疑惑へと変化した。 捨て子にしては身なりが整っているし、なにより二人の幸せそうな笑顔からは悲壮感が微塵も感じられない。 「こんな夜中に女の子ふたりで本屋さんへ?危険ではありませんか?親御さんがきっと心配をしています。はやくおうちにお帰りなさいな」 別に穢れた地上の住民がどうなろうと構わないが、悲しいかな、警告は龍宮の使いの性。考えるよりも先に口が動いた。 まあ、さかるカップルの中、性欲を持て余した独身男に強姦でもされたら寝覚めが悪いし、とりあえず忠告を発しておけば私が罪悪感を背負う必要はなくなるだろう。 だが、私の警告を逆に面白がるかのように、おさげがにやにやと笑いながら口を開いた。猫のような口元が、どうもいけ好かない。 「すまないねぇ、お姉さん。あたいたちはその保護者に贈るプレゼントを探しているところで、さ」 プレゼント、か。 私には贈る相手も、贈ってくれる相手もいない。 訂正。 苦労とトラブルのプレゼントならば嫌というほど押し付けられている。あの忌々しいわがままサンタクロースに。 「ねえこいし様、なんだかさっきからお魚の匂いがしませんか?あたいはお腹が空いてしかたありませんよ」 「もう、お燐ったら!すみません、そういうことなんで、お買い物を済ませたらすぐに帰ります。本屋さんを知っているのならば教えていただけませんか?」 とぼけた物言いのおさげをブロンドがたしなめた。痴話喧嘩を見せつけられて、よけいに私の惨めさは加速する。 本屋はもう通り過ぎたのだが、せっかくなので、目の前の二人になけなしのプレゼントを贈ってやることにした。 「そういうことでしたか。本屋さんはその先にありますよ?素敵な本が見つかるといいですね」 にっこりといつもの愛想笑いを浮かべると、私は通ってきた道とは真逆の方向を指差した。 == 「もう、衣玖、一人でいかないでよ!」 「およ?総領娘様、いらしたんですか?」 二人組と入れ替わるかのように総領娘様が追い付いてきた。 できればこのまま一人で家々を廻りたかったが、そうもいかないだろう。 総領娘様を野放しにすると町一つが壊滅しかねない。 「ねえ衣玖、疲れたわ、あそこで休憩しない?」 指差した先には甘味処。こんな夜遅くまで営業しているものなのだろうか。空気を読むのは私だけで十分だというのに。 「あの、総領娘様、今は仕事中なのですよ?それに私はこの後、天界の忘年会に出席しなければいけないのです。できれば、なるべく早くこの仕事を終わらせたいのですが」 「そんなの、出なくていいわよ。私が後で言っておくから。衣玖も別につまんないオヤジたちの相手なんてしたくないでしょう?」 確かに彼女の言うとおりだ。 天人とは表向きは聖人君子のような顔をしていても、他人の揚げ足をとるのが大好きな連中なのだ。宴会の間中、愛想笑いを浮かべつつ、腹を探り合いながら当り障りのない会話をしなければならないのは確かにうんざりする。 それでも私は、天界の和を保つためには出席しないわけにはいかない。仮に総領娘様が口利きをしたところで、陰でこそこそと言われるのは私なのだ。 だが、こうも考えられる。 総領娘様は曲がりなりにも私の上司(の娘)である。彼女の機嫌を損ねることは私の将来に響くかもしれない。 逆に、不良天人として悪名高き総領娘様を相手にうまく立ち回ったとなれば私の評価がうなぎのぼりになる可能性だって皆無とは言い切れない。最も、私はウナギではなくリュウグウノツカイではあるのだが。 総領娘様は私の袖を掴んで上目遣いで見つめてくる。赤い瞳が、頼りない雪うさぎのようだ。 柄にもないその不安げな瞳を見つめ返しながら、私は頭の中で宴会と総領娘様の二つを天秤にかけていた。 == 「うわぁ、やっぱり店の中は温かいわね♪生き返るぅ~!」 天秤は総領娘様に傾いた。我ながら妙な判断をしてしまったものだ。 店の中で今にも跳ねまわらんばかりにはしゃいでいる総領娘様は、まるで雨を受けて夏眠から覚めた肺魚のようだ。 地上の甘味ごときで喜ぶその姿は可愛らしくはあるもののカリスマのかけらもない。権力者の娘なのだからもう少し威厳をもった振る舞いをしていただきたいものだ。 ……と、愚痴る気力はすでに私には残っていなかった。 「どっこいしょっと」 腰を押し付けつつ、今日の我が身を振り返る。どうしてこうなってしまったのだろう? 本来ならば忘年会を適当にやりすごし、正月休みを温かい家の中で心行くまでビールを飲んで過ごすはずだったのに。 現実がもたらす痛みを和らげるために、私はその芳醇なその苦みと、喉に与えられる刺激を想像した。 できることならば今すぐ補充薬も総領娘も義務も権利も権力も愛も友情も夢も希望も何もかも放り出して、蛇口をひねればビールがでる国に行きたい。 ギネス。ハイネケン。バドワイザー。シメイ。ハートランド。ヒタチノネスト。 命の水。Eau de vie。ビールは心を潤してくれる。リリンの作り出した文化の極みだよ。ああビール、ビール、ビールが飲みたい。 「ねーえ、衣玖ぅ?何が食べたい?」 お菓子のように甘ったるい声で現実に引き戻された。 総領娘様はにこにこしながらメニューを開き、こちらに見せてくる。 頼むから高貴なお方がそんな媚びるような物言いはしないでほしい。頼んでも、どうせ聞かないのだろうけれど。 「奢ってくれるんですか?」 「ううん!地上のお菓子なんて、どれが美味しいのかわからないからさ、衣玖のおすすめを教えてよ♪」 屈託もない顔で悪びれもなく答える。私に奢らせる気だけは満々なくせに、自分のことも自分で決められないのか。これだからゆとり世代は。 私は給仕を呼びつけてメニューの中から手ごろな値段のものを適当に指差して注文する。 「ねぇ、衣玖は何食べるの?」 「私はコーヒーで」 喉の奥まで出かかった「ビール」という単語はなんとか飲み込むことができた。 「むぅ、空気読めてないなぁ……」 「十分読んでいるつもりですが」 甘いものは苦手なのだ。それにくだらないことで必要以上にお金をかけたくはない。 私たちのやりとりに苦笑しつつ、給仕は立ち去った。わがままケーキ姫のお陰でいらない恥をかいてしまった。 周囲の席は、またもやカップルで埋め尽くされている。 女の子二人連れは、まるで烏天狗の中に放り込まれた地獄鴉のように場違いだ。 耳に入ってくる、お菓子よりも甘ったるい会話が私の神経をさらに波立たせる。甘いものは苦手だと言っておろう。 いっそのこと一人ずつドリルで串刺しにしていきたい気分ではあったが、あいにく羽衣は総領娘様に巻き付けてある。 店内の人間どもは血の海にならなかったことを不良天人様に感謝することだ。 「ねえ衣玖」 「なんですか?」 おもむろに総領娘様が口を開いた。 声が普段より低くなってしまう。今の私は不機嫌さを隠すのが精一杯だ。 「占い、してあげる」 「占い……ですか?」 くだらない。占いなど、自分で自分を決することの出来ない優柔不断な輩がするものだ。 それに、ああいうものは解釈によって万人に当てはまるようなことを書いてあるのだ。あたりもはずれもない。 だが、どうせお菓子を待っている間は暇なのだ。場をもたせるためにも付き合ってみるのも悪くないかもしれない。 「そう、占い。あのね、私のあげる単語の中から、好きなのを選んで」 「性格占いのようなものですか?」 「そんなところね。いくよ?Dasher、Dancer、Prancer、Vixen、Comet、Cupid、Donder、そしてBlitzen……さあ選んで」 なんだろう、何かの名前なのだろうか?英語のようで英語でないものもあるような。 ぱっと聞いて印象に残ったのはBlitzen。これは独語のBlitzだろうか。雷光はいかにも私らしい。だがそれでは総領娘様の思うつぼのような。 Dasher, Cometという柄ではないし、かといってVixenなどもっての他。踊るのは好きだから、Dancer, Prancarあたりが妥当だろうか。 ただ、Donderだけは意味がわからない。言葉の響きから察するに、ろくな意味ではない気はするが。 == 「……では、Donderで」 結果はどうあれ、単語の意味を聞けるのならばそれでいい。そんな軽い気持ちで回答したのが仇となった。 「あはははははははは!」 私の回答を聞くなり、総領娘様はひと目もはばからずに笑いだした。 何事か、と、周囲の客の視線が私達の方に注がれる。 「あはははは!ああ、衣玖にピッタリだ。Donderは蘭語で雷という意味よ。」 「まあ、雷を操るのは副次的なものなのですが。でも、それだけではないのでしょう?笑いすぎですよ、総領娘様」 私はなんとか平静を保ったふりをしているが、注がれる周囲の視線が痛い。 リュウグウノツカイは確かに希少生物だが、私は見せものではないのだ。永江衣玖は静かに暮らしたい。 もはや総領娘様は目に涙を浮べている。なにかろくでもない裏があるに違いない。 「ごめんごめん。この単語はね、みんなサンタクロースのソリを引くトナカイの名前なの」 なんということだ。やっぱり総領娘様は私をトナカイと同列に扱っていたのだ。 神様、もうほんとどうかしてください、この娘を。ああ、家畜に神はいないんだっけ。 そんなのトナカイの絶望などつゆしらず、主は説明を続ける。 「でね、Donderはね、怠け者のトナカイなの。実力はあって、クールなんだけど、実際はただのめんどくさがり。ほんと、貴女にそっくりね」 「わ、私は怠け者じゃありません。総領娘様に付き合っている時点で、働き者の部類にはいるはずです……よ?」 そう言いかえすのが精一杯だった。みるみるうちに顔の温度が上がっているのがわかる。 悔しいが、トナカイ占いは当たっている。なんだかんだで、総領娘様は私のことをよくわかっていらっしゃる。 真っ赤になった私の顔を見て、ふたたび総領娘様は笑い転げた。 ああ恥ずかしい。できることなら駿河湾の底深くに沈んでいきたい。 「おまたせしました」 助け舟とばかりに、注文したケーキとコーヒーが運ばれてきた。 なかなか空気の読める給仕で助かった。心のなかでフィーバー・ポーズをキメる。 目の前に置かれた真っ白なショートケーキに総領娘様の視線が釘付けになった。 「わお♪美味しそうね。いただきまーす」 先程まで笑い転げていたのが嘘のように大人しくなった彼女は、目を輝かせ、フォークでケーキをつついた。 こういうところだけは、可愛いのに。 ところが 「うーん……」 彼女はケーキを一口食べるなり、渋い顔をした。 「やっぱりいらない。衣玖にあげる」 どうやら、ケーキは総領娘様のお気に召さなかったらしい。残りをまるまる押し付けられた。 なんのために甘味処で時間をつぶしたのだろう。 この時間を仕事にあてていれば、今頃は家でビールを飲めていたかもしれないのに。 私は深いため息をついて、ケーキを見つめた。純白のクリームが雪道を連想させて、さらに私の心を憂鬱にさせる。 まあ、お金はどうせ私が払うのだ。食べても罰は当たらないだろう。 コーヒーを一口すすった後、意を決して押し付けられたケーキを一かけ、口に運んでみた。 「あ、これ美味しいですね」 == 数刻後 里が一望できる高台で、今回の依頼主、鈴仙・優曇華院・イナバに出くわした。 総領娘様と同じ、やたらと短いスカート姿が寒そうだが、おそらくもう配達を終えたのだろう。その足取りは軽やかだ。 「あっ、天人様、ぱっつんお姉さん、お疲れさ……あれぇ?えっとぉ、なんか荷物ふえてませんかぁ?」 「えへへ、せっかくだから衣玖とたくさんお買い物してきちゃった☆」 そう。甘味処を出た後も私は総領娘様に振り回され、あちこちの店を転々としていたのだ。 そして店に立ち寄る度に衣玖ならどれが欲しい?だの、どれが衣玖に似合うと思う?だのいちいち私に質問をふっかけてくるのだ。 おかげで、配達するべき薬はほとんど減っておらず、それどころかカブトガニのぬいぐるみだの、 水に入れればふくれる恐竜の人形だの、牛タン風味のサイダーだの、着ると裸に見えるTシャツだの、 後から追加されたろくでもない品々で行李がぱんぱんに膨れてしまっている。 ……まあ全部私が選んだのだが。 「あーあ、だから素人さんに任せるのは嫌だったんですよぉ。余ったぶんは私が手伝いますどぉ、もぉ、仕事増やさないでくださいー」 自分から手伝いを頼んでおいてなんという言い草だ。 臆病で自分のことしか考えていない凡兎だが、そういう輩こそ優位に立つと高圧的に出るものだ。 こんな奴をわざわざ弟子にとるなど、八意殿は天才ではなく、頭のネジが外れているだけなのではないだろうか。 だが、兎の言う通り、非があるのはこちら側だ。怒りはいったんマリアナ海溝にでも沈めて、謝るしかない。 「すみません、鈴仙さん。総領娘様、だから言ったじゃないですか。先方に迷惑をかけてしまうって……」 「えー?でも、衣玖だってなんだかんだで楽しかったでしょう?」 「楽しんでなんかいません!さぁ行きましょう、鈴仙さん」 兎は、きょとんとした表情で固まっている。 「……何か?」 「いえ、貴女、そんなにはっきりものを言う人だったかなぁーって思ってぇ」 「気のせいでしょう?私はいつもどおりですよ」 いつもの愛想笑いを浮かべて誤魔化し、そのまま歩き出そうとしたその刹那。 「衣玖、見て!」 「今度はなんですか!?」 「ほら、北の空!」 また総領娘さまに呼び止められた。いい加減に私の邪魔をするのはやめてほしい。 苛立ちながら彼女の指差した先を見ると、上空にはカーテンのような、赤い光。どこかで見覚えのあるものだ。 「へぇー、オーロラですかねぇー?珍しーい」 「綺麗だね、衣玖」 きゃいきゃいと騒ぐ小娘共を横目に、私の頭の中に今日一日の忌々しい出来事がつぎつぎに浮かび上がってきた。 可愛らしいサンタクロースの衣装 一口だけ食べて押し付けられたケーキ 私に選ばせたたくさんの買い物 そしてオーロラ…… 全てがひとつの線でつながった。 そうか、そういうことだったのか。 == 「あは、あはははははは!」 笑うしかなかった。もう我慢の限界だ。これ以上茶番に振り回されるのは耐えられない。 「衣玖……?」 目を丸くしてこちらの顔を覗きこむ諸悪の根源に、私はありったけの罵声を浴びせる。 「なんですかこの茶番劇は!?お菓子を食べさせて!山のように買い物をして! 挙句の果てにオーロラを具現してきれいだねって、日頃の感謝の気持ちを申し訳程度に表してめでたしめでたしですか!?」 私はそんなものを求めてはいないのだ。 安息! 恋人! ビール! それこそが私の求めていたもの。独り善がりな親切の押し付けほど、うっとおしく、迷惑なものはない。 「ふざけないでください、総領娘様!本当に他人のことを考えているのなら、相手が何を望んでいるのかをもっとよく考えてください! 普段の素行を改めてください!ぽっと出しの親切で帳消しにできるほど、世の中は甘くできていないのですよ!?」 天秤はもうとっくに壊れていた。今日一日、いや、今までの鬱憤を晴らすように激しく感情の嵐を叩きつける。 総領娘様はおそらく激怒し、反撃してくるだろう。実力行使に出るかもしれない。 いいだろう、オーロラの光など私の台風でかき消してやる。 しかし、総領娘様が私に返したのは、反論の言葉でも、反撃の弾幕でもなかった。 「違うわ、衣玖、これは私のじゃない」 「『私のではない』?どういうことです?」 「私は今日は緋想の剣をもってない。それによく見て、あのオーロラの色を」 夜空に輝くカーテンは、混じりけのない、赤い色をしていた。 そういえば、緋想の剣で具現した極光は、もっといろいろな色が入り交じっていたような。 そうだ、確か昔見たそれは、総領娘様の気まぐれな性格を表すかのように、青、緑、赤、様々な色が入り混じり落ち着かない配色をしていたはず。 「では、あのオーロラは一体……!?」 「低緯度地域のオーロラね」 私の疑問に答えたのは、聞き飽きた総領娘様の声ではなく、艷やかで知性にあふれる声。 隣にはいつの間にか長い銀色の三つ編みを垂らした女性が立っていた。 「お、お師匠様ぁ!?」 兎が喜んだような、罰が悪いような声を出した。 声の正体は兎の師匠でもある八意永琳だったのだ。 「オーロラは、宇宙から降り込んできた電子や陽子が大気中の空気の分子を励起させることによって発生する現象。 その色は入り込んでくる電子のエネルギー量によって決定し、電子のエネルギーが大きい順に青、緑、赤、と変化する。 通常は高緯度地域で見られるものだけれど、磁気嵐が起こった時には地球の磁場が乱され、まれに低緯度地域にまで電子が入り込んでくることがあるわ。 その際通常のオーロラを発生させる電子よりも低い層の電子が降り込まれるのだけれど、それらの電子のエネルギーはおしなべて小さいため、オーロラの色は赤くなる……」 月の頭脳様が小難しい理屈を並べて解説して下さったことを要約すると、あのオーロラは本物、ということだ。 それが何を意味するのか…… 「仕組まれたことなど、何もなかったということね」 事態を読みきれず呆然とする私を面白がるように、八意殿は何もかもを見透かしたようなほほ笑みを口元に浮かべた。ぬめぬめと光を反射するルージュがやけに目についた。 「別に彼女は……比那名居天子は貴女に対して何も気負っていなかったということよ。不器用だけれど、貴女に表した優しさは、彼女のそのままの素直な気持ち」 彼女ほど聡明になると、世の理だけでなく人の心までも正確に知ることができるのか。 冷たい雰囲気とは対照的な、暖かで、諭すようなその声が私の心を泡立たせる。 「そして同様に、あなたも比那名居天子に対しては、何も気負ってはいない」 そうだ、総領娘様と話すときは、私は愛想笑いを浮かべてはいない。 世間の波を上手く泳いでいくための、あの仮面のような薄ら笑いを。 慌てて総領娘様の顔を覗きこんだ。 「やっと怒ってくれたのね、衣玖?」 散々ひどい態度をとった私に対して、涙一つ見せないで、気丈に微笑んでくれる。 一人の優しい女の子の笑顔が、そこにあった。 激しい後悔。同時にやっと、私は理解することができた。 総領娘様の前でだけ、自然な感情を吐き出せる自分を。 トナカイはオーロラの下で暮らすのが一番自然で、幸せだということを。 そして怠け者の私は、総領娘様に連れ出されるから、できる女でいられるのだ。 まるで無気力なドンダーがサンタクロースのソリを引くことによって、誇り高き雷光になるように。 どうやら今回は私の負けのようだ。ため息は、オーロラに染まって赤かった。 「やれやれ、怒られて喜ぶだなんて、やっぱりマゾヒストだったんですか?」 「衣玖が愛想笑いばかりしてくれるよりは、よっぽどいいよ」 感謝の言葉の代わりに、めいっぱいの皮肉を込めて、彼女に甘えてみる。 意地っ張りで、辛辣な私でいられるのは、総領娘様の前だけなのだから。 「行きましょうか、総領娘様。まだ少し、配達が残っていますもの」 「あ、こっちの手はもう空きましたから、私がやりますよぉ」 「……空気読みなさい、ウドンゲ?」 凸凹師弟のやりとりなど気にも留めずに、私は総領娘様に手を差し伸べた。 もうプレゼントを贈って貰うような歳ではないのだ。だから、二人でプレゼントを配って歩こうか。 どうしようもなく怠け者で、鈍感なトナカイは、このどうしようもなくわがままできまぐれな聖人君子様に、どこまでも付き従うから。 「……うん、行こう!」 だが総領娘様は私の手を取らず、ぴったりと身体に寄り添ってきた。相変わらず、空気の読めないお方だ。 思わず苦笑いが漏れた。いつのも愛想笑いではなく、本物の笑みが。 「寒いですね、総領娘様。やっぱり、羽衣返してくださいな」 いうなり私は、総領娘様の首に巻かれた羽衣を解き、改めて自分と総領娘様、二人の首に巻きつけた。 自分の頬が熱くなっているのがわかったが、赤い光が隠してくれるだろう。オーロラは空気を読んでくれていた。 傍らのサンタクロースはというと、恥ずかしそうにうつむいたまま、まるで手綱を握るかのようにぎゅっと羽衣を握りしめる。 そう、手綱はしっかりと握っていてもらわなくてはいけない。本気を出したドンダーは、どんなトナカイよりも速いのだから。 ご め ん ね かすかに可愛らしい唇がうごいた。 空気を読んで、見て見ぬふりをした。 そして私は、振るえるその肩をしっかりと抱きしめた。